徒然

読む人に読んでほしいブログ

忙しいというものは

 

忙しいというものは、心を亡くすもの。そんな事をいつぞやかTwitterで見たことがある。

その時は「なるほど、上手いこと言うな。」その程度の感想だった。

 

児童福祉施設で働いている私にとって春とは心が忙しない季節だ。

大体子ども達は入学や進級で慣れない校舎や教室、先生、お友達に目眩を起こして帰ってくる。例えどれだけコミュニケーションが上手な人でも、普段よりも疲労を倍にして帰ってくる季節なのだ。

余談ではあるが、コミュニケーション能力が高い人というのはそもそも場の雰囲気を掴むのが上手い気遣い上手である。そんな人が疲れない訳がない。

 

今年の春にスタートを切ったのは子どもだけじゃなかった。

 

私は将来の安定性と給料を欲して転職を考え出した。福祉職というものは、社会起業をするくらいの気概がないと成長はない。

そもそも障害や児童、貧困などお金がない人たちをしょっちゅう支援する仕事だ。儲けが出ない事はないが、施設は利用上限があるし利益の出難い業界である。そんな福祉職の中で最も安定しているのは、公務員になる事だと予想した。現在は医療ソーシャルワーカーなど医療法人に就職をする道もあるので、それだけとは言えないが安定性では抜群だろう。

 

彼氏が出来たし将来の事を考えると、安定をしたかった。

そのために必死で毎日毎日仕事が終わってから苦手な数学の勉強をした。SPIは出来る人からすれば然程難しい問題ではないだろうし、中高で理解をしながら勉強をしていれば大きな壁でもないのだろう。

だが、学生時代の私はとにかく宿題というものが苦手で親からは勉強ができないアホの烙印を押されていたため、私は自分が"出来ない子"そう思っていた。

出来ない子が出来ない事をするのだ。どれほど時間を割いても自分はできないというレッテルから逃れられなかった。

結果としてはSPI選考はなんと通過をしたため、自分は納得できていないが基準はクリアをできてはいる。

それでも自分に巻き付かれたレッテルが呪いのように私から離れなかった。

勉強をする時間が積み重なる度に、勉強が出来なくて周りについていけなくて居残りをしょっちゅうさせられた事や提出物が出来なくて黒板にずっと名前を書かれて公開処刑をされていた事など嫌な記憶を思い出す事となった。

 

 

1つ上手く行かないと、引きずるのが人間というものだ。

勉強が上手くいかなくなると、今度は元々本調子で出来ていなかった仕事でより調子を崩す事となった。

ましてや春だ、子ども達の忙しない心に私が呑まれていた。

職場の人たちはそこまで嫌いではないが、皆んなコミュニケーションが中々取れていなくて関係に大きな溝がある。信頼関係というものは全くといって良いほどないだろう。

信頼をされていないから、私も信頼ができなかった。それは逆も然りだ。

そんな毎日が続き、私は職場で自分の力の出し方を忘れた。ただただ周りの顔色を伺い、なんとか卒なくこなせる様にするだけの日々だ。信頼されていない事は仕方がない、だけどこれ以上嫌われては辛いからとにかく嫌われないように振る舞う事で精一杯だった。

 

 

そしてGWが明けた頃、3月辺りから続けていた勉強が出来なくなった。内容が伴いのではなく、机に向かって参考書を開きペンを握ることができなくなったという意味だ。

何がとは明確には言えないが怖くなった。

勉強が出来なくなると、目的も不透明になってきた。本当に公務員がやりたい事なのかと自問自答をし始めた。

現在の職場から早く逃げる事と、彼氏と結婚をするために安定を望んでいたから公務員を目指していただけであって、本来の私が望む私の姿ではないと気付いた。

だが本当の私が何をしたいかはまだ分からなかった。

目的地も道筋もロクに書いていない地図を持ちながら歩くのは心許ないものだ。

その目的地と道筋は本来は自分で出すべきなのだろうが、どうしても自分が地図を上手に描けるとは思えない。だから、他人に私の地図を書いて欲しかった。

 

悶々としたまま何日も過ごし、彼氏に対する失言も増え、それに対する申し訳なさに悔やまれた。そして私は自分を失いかけた。

 

 

 

忙しいというものは、心を亡くすこと。

これは、つまり自分を失うという事だ。自分を失っている人は納得ができない。

何か一つ頑張って自己満で頑張ったなぁと納得がすれば良いものの、何故か「これじゃダメだ」なんて考えてたりする。理由は他人の評価を気にしたり、自分への理想が高いなど色々だろう。私の場合は他人から"出来ない子"だとまた思われないために、より良い結果を出さなければならなかった。

そのために、他人に自慢ばっかりしていたし、自分をどう見せるかばかりに気を取られていた。

だから私は自分が周りに良い人と思われるであろう行動が出来た時に、何より自己満足感があった。私って凄い!と思えた。

 

でもそれは自己満足感ではない、優越感に近しいものだ。他人を自己満の道具にして、自分を輝かせているだけだ。

これまでそうして自己満を得てきた私は、それに気付いてしまい自己満が出来なくなってしまった。

 

 

 

だが、やっとこれで私が始まった。

 

そもそも他人の賞賛から自己満が成り立つのではない。自分が積み重ねてきた努力こそが自分で、その努力をただただ楽しむ事が自己満なのだ。

努力と書くから人は、たいそうな物だと勘違いをしてしまう。

私には自分が迷った時に振り返るために書き溜めてきたこのブログがあった。これで自己満をすれば良い。

きっと私は洞察と考察を繰り返し深く考える事が好きなのだ。尚且つそれを言語化して他人に伝えられれば嬉しい。

だから私はこうして文にする事を選んだ。誰かに見られる見られないなんてどうでも良い。

自分が自分を知るために納得するために言葉を綴る、それで良かったんだ。

 

 

 

文を書く、そんな好きな事を忘れていた。

きっと私はとてつもなく忙しかったんだ。