徒然

読む人に読んでほしいブログ

探偵ナイトスクープに人生を救われた人の話

私の母は超絶メンヘラヒステリックで、父は超絶暴力以心伝心下手男だった。

 

父に関しては齢50も過ぎ、多角的に物事を捉えられるようになってきたからか暴力を振るうこともなくなり、人の話を聞けるようになれたので過去形で話しても問題ないだろう。

だが、私が覚える私の幼少期の記憶の中では父は常に母と喧嘩をして、時には殴って、私たち子どもを階段から突き落とすような人だった。

勿論、今となればしたくてしてた訳ではなく、母のメンヘラヒステリックについていなくなっての結果だとは理解ができる。でも、私にとって父は永遠に恐怖の対象であることは間違いがない。

 

そんな2人だ、当然ながら離婚をする。

離婚をしたのは、私がまだ幼稚園の年長で姉が小学1年生の時だった。

とある週末、母方の祖父母の家に母と一緒に遊びに行き、いつものように日曜の夜になると父が迎えにきた。玄関に迎えにきてくれた父に歩み寄り、私たち姉妹は靴を履いた。だが、一向に母は玄関先に座って動かない。いつもと何かが違うと、どれだけ幼くても察することはできる。姉が「ママ、一緒に行こ。」と声をかけた。すると、母が俯いてほんの少しの間を置いてから静かに泣き出しながら「今日からあんたらとは住まれへん。あんたらの母ではなくなる。」と告げた。当時私はまだ離婚という言葉も知らない、言葉の意味を把握できてはいなくてもショックな出来事だとすぐに理解した。姉も恐らく同じだったのだろう、泣きながら絞り出すように「なんでなん?」と言っていた。私の玄関先での記憶はここで止まる。

次の記憶は、それまで家族で住んでいた家に帰り母のいない食卓でご飯を食べるところから始まる。祖母がご飯をよそいながら「この子らには罪はないねんけどな。」と"罪"という単語の意味すら知らない6歳の私はその言葉を聞いて鼻水と涙でドロドロでべっちゃべっちゃなご飯を一生懸命噛み締めながら食べた。祖母だけが味方だった。

 

父と母が唯一優しかったのは、どちらにも会える環境を作ってくれたことだ。小学生になれば、平日は母の家、週末は父の家を行き来するようになった。そこには感謝をしている。大好きな祖母にも何度も何度も会えた。

だが、所詮は超絶メンヘラの母だ。私が小学2年生になる頃、母の言いつけをあまりに守らなくて宿題も全くしなかったので、母がブチギレて「お前のせいで、家を出て行かなあかんねん!強くなれ、人に優しくしなさい。」と泣きながら家出をした。それから3ヶ月ほど平日は母方の祖父母に育てられた。この時は私は世界で最も最低な娘で生きている価値がないと思った。確かに宿題をしない事も、母の言いつけを守らないのも良くない。だが、まだ2年生だ。そんなに聞き分けが良いはずがない。むしろ聞き分けが良くない方が良い。この母の言葉を27になった今も忘れられなくて、数年前まで好きな人ができてもいつかどこかで捨てられるのだろうと思っていた。人に愛されることはもうないと確信した瞬間だった。

 

中学生になり、姉が吹奏楽をしていた事もあり、母はとにかく私を吹奏楽部に入部をさせようとした。毎日毎日、家に帰るたびに「今日は入部したか?入らんなら学校やめろ。」と言ってきた。私は本当は演劇部か美術部に入りたかったので、とにかく反抗をしたが、仲良しのお友達と引き離されるのは辛く、泣く泣く吹奏楽部に入部することとなった。吹奏楽部は360日稼働しており、日曜祝日に休みはなく、練習時間は朝の8時から夜の19時までだった。好きでもない無理矢理させられている上に、その練習時間は兎に角堪えた。母には、私の好きなことをさせてくれないという親としての信頼感が殆ど無くなっていた。

そんな矢先、母が妊娠再婚をした。これについては嫌だと思うと私が崩れるような気がしたので、咀嚼もせず飲み込んだ。つまり味がしなかった。何にも思わない。この時には精神が崩壊をしかけていたが、さらなる不幸が私を襲った。

中学3年生の冬、最愛の祖母がこの世を去った。何もかもを失ったと思った。私にとって唯一の味方で、唯一はっきりと好きだと言える人で、辛いという感情に向き合うことすらできなかった。

そんな辛さが募り、私は吹奏楽部を逃げるようにやめた。勿論、母からは人格を否定されるほど怒られた。それでもとにかく好きに生きたかった。

 

高校生になり、仲良しの友達と放課後を教室で過ごし、本当にかけがえのない思い出ができた。この思い出があるから、今生きられているのかもしれない。楽しいという感情には希望を感じる。

だが、それでも世間の常識は「家族を好きでいること」だ。私は常識から仲間外れをされ、果てはもう2度と誰にも愛してもらえないと思っていた。

 

大学生になった。その頃は今思えば鬱病適応障害のなにかになっていた。何にもする気力がわかなかった、どうせ私が頑張っても意味がないし、やりたい事はできないし、生きている意味はないし、愛される事も2度とない。あとは死を待つだけなんだろうと本気でそう思っていた。

そんな大学にも行けず自己否定でいっぱいの中、とある金曜日の夜にテレビを見る。

関西では知らない人はいないと思われるほどのオバケ番組で、土曜日に学校で友達と会えば「昨日のナイトスクープ見た?」と話すのが当たり前だった。

その番組のコーナーでスナックのママに人生の折れ線グラフを書いてもらっていた。色んなママが壮絶な人生を送っていた。私はそれを見ながら、「いやいや私の方が辛いわ」なんて思ったりした。そう思っていると、とある弾けるような笑顔のママが登場をする。このママの折れ線グラフでは私が「負けた」と思うほど辛い人生を生きていた。私なら自殺をしていたかもしれないと思った。最後の最後に探偵の石田靖がそのママに「今はどうなん?」と聞くと、ママは満面の笑みで「人生捨てたもんじゃない!」と自信を持って答えていた。

 

そのママの言葉にボロボロと泣いた。ちょうどその頃母と喧嘩をして、「お前は地獄に堕ちろ」なんて言われた事もあり、とにかく生まれてきたことを後悔していた。なんで生まれてきたのだろう、なんで生きているのだろうと。自殺する勇気がないのが情けなかった。でも、このママを見て、いつか私にもこんなことを言える日が来るのかもしれないと思った。その日までもうちょっと、後もうちょっと頑張ってみようと思えた。

 

その日から早6年が過ぎる。

やっと、やっと私も生きてて良かったと胸を張って言える日が来たと思える。それからも辛いことは山ほどあった、それでもその言葉を胸に頑張って生き抜いてきた。

私には付き合って丁度1年の彼氏がいるが、この彼氏に付き合い始めた当初「好きな人の人形になるな」と言われたことがある。この言葉でやっと、私が私を曝け出してワガママを言えるようになれた。本当に"愛"というものを生まれて初めて感じている。

楽しいことを素直に楽しいと言える自分になれた、したい事をできる自分になれた。これから先も辛いことは絶対にある、沢山ある、それでも時間をかけて前を向けるような気がする。そんな自信がなんとなくある。これを幸せ、と呼ぶのかもしれない。

 

名前も顔も覚えていないけど、ナイトスクープに出ていたママ、私を救ってくれてありがとう。

自殺ってそんなにいけないのか

とある芸能人が自殺をした時、私は「死ぬことが色んなしがらみから逃げられる唯一のほうほうだったんだな。せめて天国ではお幸せに。」というツイートをした。

これを見たフォロワーが「なんでこんなこと言うの?自殺を認めちゃダメだよ」とリプライをしてきた。

 

こういう自殺をする気持ちを受け入れられなくて、拒絶をする人がいるから自殺をするのかもなと思った。

なんで自殺をしてはいけないんだろうとその人に聞いてみたところ「悲しむ人がいるから」と言っていた。

私としてはふざけるんじゃないという気持ちだ。なんで人様のこと考えて自分の生き死にを考えなくちゃならんのだ。

そんな偽善めいたことを言う前に、お前が50万でも渡して「思う存分楽しんで!」と言った方が余程自殺を食い止められると思った。

勿論そんなことをしたところで何か根本的な問題を解決はできないし、自殺をしたくなった原因を晴らすことはできないだろう。でも自殺の延期はできるかもしれない。その延期期間に幸せだと感じる思い出がもしかしたら生きる糧にはなるのかもしれない。

将来を考えたときに絶望的なことばかり考えついたり、これまでを辿ると悲しい思い出ばかりが思いつくから、この世にしがみつく理由がなくなるのだと思う。まだこの世にしがみついていたい私には分からない世界だし、あくまでも想像の域を超えない話ではあるが。

それでもこの世にしがみついている人にできる事は精神科に通わすだとか、カウンセリングを受けさせるも大事だけど、それよりも全てから逃げられる手段を作ることが何よりの仕事なんだろうなと。簡単にできれば自殺をする人なんて減っているのかもしれないが、それでもだ。誰かが自殺をして悲しいというならそれをする覚悟が必要なんだろうなと思った。

 

20歳になった時、似合わない振袖を見て「まだ20歳か、これから先誰かに愛されて幸せに生きれるのかな」と思った。

そんな私が今それなりに幸せだと感じられるようになれたのは、前の職場で初めて自分を必要とされていると感じられたからだ。初めて何か頑張ってみようと思えた。それまでは何とか生き延びているという感じだったが、そこからはそれなりにやれている。そして社会人で自分のお金を持って心の余裕を持てた。

幸せなんてきっと望まなくても良い、理想の幸せなんて捨てても構わない。でも楽しい事はどんだけしても良い。楽しい事をたくさんたくさん積み重ね、その先にやっと幸せだと感じる瞬間が来るのだと思う。

自分は誰なのか

自分という存在は自分の中にあるのか、または社会の認知が自分の存在を作っているのか。生きている上での永遠のテーマなのかもしれない。

 

私は、とても目立ちたがり屋だ。この性格の所以は幼児期の環境による影響も大きいだろうが、それよりも元々持って生まれ出た性格だと思う。物心ついた時から、テレビ画面に映るアイドルを見て羨ましいと思った。その憧憬を引きずり、私は今ドルオタになったのだろう。

 

目立つ方法はこの世に幾万とある。私は変人になりきる事で目立とうとした。でもあくまで"なりきる"だけだ。本当の私は何の変哲もない普通の女の子だ。

私の考える変人は、賢くて変わった趣味を持って周りと違う考えをしている人だった。

だから、それをやり通した。本当は抜けているただのアホなのに、猛勉強しているフリをした。本当はみんなと一緒に好きなものを語りたいのに、"私だけ"は違う物を好きでいようとした。大多数の意見を参考にすれば当てはまり上手く事が運ぶ事もあるのに、私は違うと自分に言い聞かせた。

なるべく、みんなが経験しないような事を自ら選んでしていたから正直辛かった。当たり前に楽な道を選べば良いのに、自分は違うという話のために何度も遠回りをして傷付いた。している事はメンタルのリストカットと変わらない。

 

結果、ヤバい人間になった。

30手前にもなって今更こんな事に気付くなんて、本当に大人じゃないなぁと思う。当然だが、セオリーにあまりにも当てはまらない事をしていれば人は危険因子を感じ取り、避ける。年々自分の周りから人が消えていき、やっと私は外れ者だと気付いた。取り返しのつかない事をしたのかもしれないなと。

 

でも、そうでもして自分を誇大表現したかったのは、誰にも認めてくれなくて必死な自分がいたんだと思う。もう疲れたからそんな無理をしなくても良いのかなと思った。あるがままの自分で生きるため、もっと素直に生きていけば良いのかなと。

 

周りに変人と思われたくて選んできた事よりも、私が本当に胸を張って好きと言えるものを好きでいたい。

本当の私は常に自分の中にあって、それを見失いたくない。

27年かけてやっと私は本当の私に向き合えるそんな時が来たんだと思う。

今日の夢

家に帰った私は、鞄も下ろさず、首元にはマフラーを巻いたまま、両立に掴んでいる2枚の紙を見つめていた。

1枚は今日学校から渡された模試の結果だ。行きたい大学の判定はCだ。後3日でサンタが舞い降りるこの時期にC判定は、もう受かる見込みはないと考えた方が良い。

そして、2枚目。明日に提出期限が迫っている指定校推薦の小論文用紙だ。用紙にはびっしりと自分にとってはこの上なく綺麗な書き方で文字が埋め尽くされている。指定校推薦で選んでいる学校の模試の判定はAだ。このまま何事もなければ合格をするだろう。

一度、両方の紙から視線を外し、窓の外を見つめた。外の道路では、サラリーマンや子どもが行き交っている。あのサラリーマンはもしかして関関同立の名門校を出て、会社も外資なんかに入り出世しているのだろうか。はたまた、あそこで友達とじゃんけんをしながら笑って走っている男の子は、もしかして運動神経が良くスポーツ推薦で名門に入るのかもしれない。

また手元の紙を見た。私には何か自分に期待をするような、中身は何一つなかった。自分の未来を想像してワクワクもできず、むしろ、大人になっても結婚もできず、正社員もクビになり駄目な大人になるんじゃないかと思った。そのためにも、大学は少しでも良いところに行って明るい未来を作るためには頑張らなければいけないとは思っている。でも、私にはこれまで何か真剣に頑張ってきた事がなく、行きたい大学に行く夢を見続ける力がそもそも備わっていなかった。

そして私は片方の紙をファイルに閉じて、鞄におさめ、明日に備えた。

 

ここまでが夢と現実どちらも同じだった。

どちらかの紙を入れたかによって私の将来は大きく転換をする。

 

夢の中の私は、鞄に指定校推薦の小論文を入れていた。そして自分の部屋を出ると既に大学生になっていた姉に遭遇をする。姉は高校生の時に、第一志望だった大学には行けなかった。初めから先生方には行けるよと言われていたが、指定校推薦の制度が急に姉の年代から変わり、姉のクラスでは指定校推薦枠が他のクラスよりも後に回ってくることが決まったのだ。そのため、姉のクラスに指定校推薦が回ってきた時には既に枠は埋まっており、あえなく断念。そして、一般受験で頑張るところまで頑張ると決め、第一志望ではないが自分で行きたい場所に実力で入っていった。

姉が私の顔を見て何かを察したのだろう。「私もな、後悔してるねん。もっと早くから勉強しておけば良かったって思ってる。」と自分の過去を振り向いて、悲しそうな、でも真面目な顔をして私にそう言った。

私はこの時初めて、他の人も挫折と後悔をする事を学んだ。ならば、今からもう一度一から勉強をして、来年は浪人してでも良い大学に行こうと決心ができた。心が決まった私はすぐさま家を出て、苦手な数学の参考書を会に行っていた。

 

一方、現実の私は、鞄には模試の結果を入れていた。もう一枚は明日のために見直した。文を見ながら、何度も何度も自問自答を繰り返した。この大学に入る理由を考え書いた紙を見ていると、いつの間にか自分で自分を洗脳していた。本当は理由なんかなく、あてつけで書いたはずの志望動機をいつしか本当に私がそう思っていると勘違いをし始めた。でも、これで良いと思った。私には勉強を続ける根性もないし、そもそも勉強のセンスもない。やり続けたところで見える結果が駄目なものと分かっているなら、やらない事も一つの選択肢だと、そう思っていた。それに仲の良かった友人は皆んな大学を既に決め解放感から遊んでいたので、私もそこに混じりたかった。そんな事に流されても良いのかと迷いもあったが、卒業まで間もないし、今楽しむことが大事だと自分にそう答えた。

そして、次の日私は先生の目も見る事もできず、小論文用紙を提出する事になった。

 

 

私は昨日仕事終わりの電車の中で、お気に入りのハリーポッターを読んでいた。ダンブルドアは悩むハリーにこう告げていた。

「自分が何者であるかを決めるのは、能力ではなく選択なんじゃよ」

この一言を見て、私はこれまでどんな選択をしてきたのかと半生を振り返った。すぐさま大学受験の選択の後悔をした。例えC判定でも、勉強を続ければ良かったと。あの頃の私は何もかもが怖かった。実力を出す事も、頑張る事も、落ちる事も、自分に悲しむ事も、周りから馬鹿にされる事も何もかもだ。だが、国家試験や公務員試験、色々な経験を積んだ今の私ならやれる、例え第一志望には行けなくても自分の実力で大学を選択できると自信があった。能力がなくても、能力をつける選択を今ならできる。

そして、何よりも私は挑戦をしなかった事に対して1番後悔をしていた。私は受験に挑戦して、落ちても、その失敗の結果すら欲しかったんだと今更気付く。当時の自分の能力に見合った楽な指定校推薦を選択しただけに、挑戦も失敗もどちらも得れなかった。失敗をするのは、挑戦をした者だけと、30代を見据えた今の私はよく知っていた。

だが今更、大学受験をやり直す時間はない。それこそ現実的に考え私が本当に進みたい医学部を目指すならあまりにも途方がなく、他の家庭を築きたいなどの夢を全て諦める事になる。また、後悔を払拭したくて理科の勉強を少しだけしたが、中学生レベルから全てやり直す必要があり断念をした。非常に悲しいがこれが現実だと受け入れ、今の自分が目指せる高みの場所が公務員だったのでそこで頑張ることを決意した。ダンブルドアの言葉の様に自分で何者になるか選択できる大人になれているだろうか、そんな思考を巡らせながら今日も進む。

そういえば

 

ある事をきっかけに何かをふと思い出す事がある。その積み重ねが人生だなと思ったりする。

 

小学生になって初めての冬、窓から雪が降っているのを見た。へー、大阪って雪が降るんだ。特に喜びもせず、奈良で暮らしていた私はそう思った。

2年生になり、また同じ季節が巡る。窓を見ながら、1年前に雪が降っていた事を思い出した。その時、1年間の記憶が巡って蘇り、時の速さを実感した。おばあちゃんが歳を取ると時間が早く経つと言っていたけど、こういう感覚なのかなと思ったのをよく覚えている。

 

大人になり、他人との会話や行動で過去の自分を思い出す事が増えた。

私は昔は破天荒な生徒だった。大人の言う事はほとんど聞かない、むしろ聞きたくない。優等生なんてクソ喰らえ、校則なんてものは破るために在る、大人からすれば何とも困った子どもだった。

でもそれはただ型にハマりたくないという気持ちだけでしていたのではない。大人の言う言葉にあまり共感も出来なければ、聞く気も起きなかった。上手く生きられている大人の方が少ないのに、そんな大人の言う事を聞いてどうなるんだという考えがずっとあった。

親に怒られても、どうにも売り言葉や買い言葉で言われた言葉の方が多く全く刺さらなかった。

親に迷惑をかけるなと何度も怒られていたが、そもそも子どもとは迷惑をかける生き物で、それを了承して産んだのではないかと中学生くらいからずっと思っていた。それを了承した上で産んだとするのであれば、私にかけられた迷惑に一々惑わされるなとも思っていた。

 

でも、今は社会人になり迷惑をかければ自分に返ってくるので流石にその様な事はもうしない。でも、正直そこまで親に迷惑をかけているのに、申し訳なさも感謝も少ししか感じない。これは人間として、他人を尊重する気持ちがあまりにも足りないだろう。

 

ここまで思うようになってしまったのは、幼少期がとても大きい。

親は毎日毎日飽きるほど喧嘩をしていた。まだ幼稚園児の私から見ても"そんな事で喧嘩をしなくても"と思う様な内容で喧嘩をしている時もよくあった。怒らず少し話せば分かるだろう内容すら、お互いが日々の積み重ねのイライラから何でも喧嘩しているのを見て"大人って本当に情けない"と思っていた。当時は情けないという言葉を当然知らないので、私は親の怒声を背景に自分の脳内の友達と遊んでいたのをよく覚えている。親の相手をしている方が子どもだ、そんな事を考えていたんだろう。

だから、親に怒られても"あれ如きで怒る人が、よくも私にそんなん言えるなぁ"と、どこか冷めていた。大人からすれば本当に嫌な大人だと思う。こんな考えが20歳頃まで続いていたので、周りの大人の言う事は殆ど聞いてこなかった。

 

社会人を続け数年が経った。

大人も色んな人がいる。人の話をしっかり聞いてくれる人もいて、その様な人にも出会えた。やっと自分の中で大人の認識が変わってきた。だから周りの人の話も聞ける様になってきた。成長が遅いったらなんのその。

幻を追いかけて

 

リズム良く刻まれる包丁の音と、野菜と味噌の甘い香りで朝は起きる。眠気眼をこすりながら居間へ行くと「もうちょっとでご飯が炊けるよ。顔を洗っておいで。」と告げられる。

朝食を食べていると唐草模様の風呂敷に包まれた弁当箱を渡してくれる。それを鞄に入れ、私は大きな声で「いってきます」と言いながら家を出る。

夜になって家に帰ると、学校や部活の疲れた話をテレビでも見ながら母に聞いてもらい1日の疲れを取る。そんな一日。

 

 

そんな一日を送ってみたかった。

私が自分が不幸な女の子を演じるために記憶を改竄していなければ、その様な事は一度もなかった。小学生の時は朝5時起きで母より早いため、いつも祖父が朝ご飯の準備をしてくれていた。中学生になると、部活の朝練があると車で送ってくれた事もあるし全てが嫌だとは語らないが、その部活も無理矢理入らされた物なので不服さがある。高校生になると週に一度ある幼稚園児の妹の弁当は私が作っていた。

小学生から高校生までの間で母の弁当を何度も食べた記憶があるし、いなり寿司が食べたいと言った次の日には入れてくれたそんな楽しい記憶もある。

だから厄介だ。嫌いだと一括りに言える関係でも記憶でもない。

 

それでも私は母に全てを包み込んでもらうような安心感を求めていた。

この年齢になって、母にされた嫌なこと悲しかった事がどんどん思い出せるようになってきた。これを恥ずかしく思うと同時に、私がこんなに不甲斐ない大人になってしまった事を母のせいに出来る楽さもある。

安心感を与えてもらえなかったから私はこうなった、そういう言い訳を作ることで私は自立という責任から逃れている。我が身可愛いのだ。

 

しかし、私が責任逃れをできる程に母は母としての役割と同時に女を感じさせる人だった。私たち子どもを数ヶ月もほったらかしにして彼氏の家に住み着くような人だ。

当時の私は時間割の見方すら分からず、毎日毎日全教科の教科書やカスタネットを持って学校に行っていた。そんな重たいランドセルを背負っていた娘の姿すら気付かないのは正直親として頼り甲斐が無さすぎる。

 

母は私たち子どもの事は可愛がっていたのは事実だ。だが、母は自分のことは可愛がれない人だった。だから、子どもの私と姉に自分を重ねて自分と同じ部活動をさせたり、自分が可愛がれる姿を作り上げようとしていた。それが母の教育の一つだった。

 

そして私たち子どもはそんな母から憎悪ではなく、感謝を持って離れるべきだろう。

綺麗事ではない、母を母として受け入れ、自分が抱いている母の幻想を捨てるのだ。

いつでも自分の話を聞いてくれて、無駄にヒステリーにならず優しく接してくれて、子どもより男を優先しない母なんていたところで、いつかは同じ様に子どもが巣立つ日が来る。

母という像に抱くは世間が作り上げたイリュージョンだ。それを全う出来るほど人間は出来てもいない。

だから、私は自立を志す。

忙しいというものは

 

忙しいというものは、心を亡くすもの。そんな事をいつぞやかTwitterで見たことがある。

その時は「なるほど、上手いこと言うな。」その程度の感想だった。

 

児童福祉施設で働いている私にとって春とは心が忙しない季節だ。

大体子ども達は入学や進級で慣れない校舎や教室、先生、お友達に目眩を起こして帰ってくる。例えどれだけコミュニケーションが上手な人でも、普段よりも疲労を倍にして帰ってくる季節なのだ。

余談ではあるが、コミュニケーション能力が高い人というのはそもそも場の雰囲気を掴むのが上手い気遣い上手である。そんな人が疲れない訳がない。

 

今年の春にスタートを切ったのは子どもだけじゃなかった。

 

私は将来の安定性と給料を欲して転職を考え出した。福祉職というものは、社会起業をするくらいの気概がないと成長はない。

そもそも障害や児童、貧困などお金がない人たちをしょっちゅう支援する仕事だ。儲けが出ない事はないが、施設は利用上限があるし利益の出難い業界である。そんな福祉職の中で最も安定しているのは、公務員になる事だと予想した。現在は医療ソーシャルワーカーなど医療法人に就職をする道もあるので、それだけとは言えないが安定性では抜群だろう。

 

彼氏が出来たし将来の事を考えると、安定をしたかった。

そのために必死で毎日毎日仕事が終わってから苦手な数学の勉強をした。SPIは出来る人からすれば然程難しい問題ではないだろうし、中高で理解をしながら勉強をしていれば大きな壁でもないのだろう。

だが、学生時代の私はとにかく宿題というものが苦手で親からは勉強ができないアホの烙印を押されていたため、私は自分が"出来ない子"そう思っていた。

出来ない子が出来ない事をするのだ。どれほど時間を割いても自分はできないというレッテルから逃れられなかった。

結果としてはSPI選考はなんと通過をしたため、自分は納得できていないが基準はクリアをできてはいる。

それでも自分に巻き付かれたレッテルが呪いのように私から離れなかった。

勉強をする時間が積み重なる度に、勉強が出来なくて周りについていけなくて居残りをしょっちゅうさせられた事や提出物が出来なくて黒板にずっと名前を書かれて公開処刑をされていた事など嫌な記憶を思い出す事となった。

 

 

1つ上手く行かないと、引きずるのが人間というものだ。

勉強が上手くいかなくなると、今度は元々本調子で出来ていなかった仕事でより調子を崩す事となった。

ましてや春だ、子ども達の忙しない心に私が呑まれていた。

職場の人たちはそこまで嫌いではないが、皆んなコミュニケーションが中々取れていなくて関係に大きな溝がある。信頼関係というものは全くといって良いほどないだろう。

信頼をされていないから、私も信頼ができなかった。それは逆も然りだ。

そんな毎日が続き、私は職場で自分の力の出し方を忘れた。ただただ周りの顔色を伺い、なんとか卒なくこなせる様にするだけの日々だ。信頼されていない事は仕方がない、だけどこれ以上嫌われては辛いからとにかく嫌われないように振る舞う事で精一杯だった。

 

 

そしてGWが明けた頃、3月辺りから続けていた勉強が出来なくなった。内容が伴いのではなく、机に向かって参考書を開きペンを握ることができなくなったという意味だ。

何がとは明確には言えないが怖くなった。

勉強が出来なくなると、目的も不透明になってきた。本当に公務員がやりたい事なのかと自問自答をし始めた。

現在の職場から早く逃げる事と、彼氏と結婚をするために安定を望んでいたから公務員を目指していただけであって、本来の私が望む私の姿ではないと気付いた。

だが本当の私が何をしたいかはまだ分からなかった。

目的地も道筋もロクに書いていない地図を持ちながら歩くのは心許ないものだ。

その目的地と道筋は本来は自分で出すべきなのだろうが、どうしても自分が地図を上手に描けるとは思えない。だから、他人に私の地図を書いて欲しかった。

 

悶々としたまま何日も過ごし、彼氏に対する失言も増え、それに対する申し訳なさに悔やまれた。そして私は自分を失いかけた。

 

 

 

忙しいというものは、心を亡くすこと。

これは、つまり自分を失うという事だ。自分を失っている人は納得ができない。

何か一つ頑張って自己満で頑張ったなぁと納得がすれば良いものの、何故か「これじゃダメだ」なんて考えてたりする。理由は他人の評価を気にしたり、自分への理想が高いなど色々だろう。私の場合は他人から"出来ない子"だとまた思われないために、より良い結果を出さなければならなかった。

そのために、他人に自慢ばっかりしていたし、自分をどう見せるかばかりに気を取られていた。

だから私は自分が周りに良い人と思われるであろう行動が出来た時に、何より自己満足感があった。私って凄い!と思えた。

 

でもそれは自己満足感ではない、優越感に近しいものだ。他人を自己満の道具にして、自分を輝かせているだけだ。

これまでそうして自己満を得てきた私は、それに気付いてしまい自己満が出来なくなってしまった。

 

 

 

だが、やっとこれで私が始まった。

 

そもそも他人の賞賛から自己満が成り立つのではない。自分が積み重ねてきた努力こそが自分で、その努力をただただ楽しむ事が自己満なのだ。

努力と書くから人は、たいそうな物だと勘違いをしてしまう。

私には自分が迷った時に振り返るために書き溜めてきたこのブログがあった。これで自己満をすれば良い。

きっと私は洞察と考察を繰り返し深く考える事が好きなのだ。尚且つそれを言語化して他人に伝えられれば嬉しい。

だから私はこうして文にする事を選んだ。誰かに見られる見られないなんてどうでも良い。

自分が自分を知るために納得するために言葉を綴る、それで良かったんだ。

 

 

 

文を書く、そんな好きな事を忘れていた。

きっと私はとてつもなく忙しかったんだ。