徒然

読む人に読んでほしいブログ

幻を追いかけて

 

リズム良く刻まれる包丁の音と、野菜と味噌の甘い香りで朝は起きる。眠気眼をこすりながら居間へ行くと「もうちょっとでご飯が炊けるよ。顔を洗っておいで。」と告げられる。

朝食を食べていると唐草模様の風呂敷に包まれた弁当箱を渡してくれる。それを鞄に入れ、私は大きな声で「いってきます」と言いながら家を出る。

夜になって家に帰ると、学校や部活の疲れた話をテレビでも見ながら母に聞いてもらい1日の疲れを取る。そんな一日。

 

 

そんな一日を送ってみたかった。

私が自分が不幸な女の子を演じるために記憶を改竄していなければ、その様な事は一度もなかった。小学生の時は朝5時起きで母より早いため、いつも祖父が朝ご飯の準備をしてくれていた。中学生になると、部活の朝練があると車で送ってくれた事もあるし全てが嫌だとは語らないが、その部活も無理矢理入らされた物なので不服さがある。高校生になると週に一度ある幼稚園児の妹の弁当は私が作っていた。

小学生から高校生までの間で母の弁当を何度も食べた記憶があるし、いなり寿司が食べたいと言った次の日には入れてくれたそんな楽しい記憶もある。

だから厄介だ。嫌いだと一括りに言える関係でも記憶でもない。

 

それでも私は母に全てを包み込んでもらうような安心感を求めていた。

この年齢になって、母にされた嫌なこと悲しかった事がどんどん思い出せるようになってきた。これを恥ずかしく思うと同時に、私がこんなに不甲斐ない大人になってしまった事を母のせいに出来る楽さもある。

安心感を与えてもらえなかったから私はこうなった、そういう言い訳を作ることで私は自立という責任から逃れている。我が身可愛いのだ。

 

しかし、私が責任逃れをできる程に母は母としての役割と同時に女を感じさせる人だった。私たち子どもを数ヶ月もほったらかしにして彼氏の家に住み着くような人だ。

当時の私は時間割の見方すら分からず、毎日毎日全教科の教科書やカスタネットを持って学校に行っていた。そんな重たいランドセルを背負っていた娘の姿すら気付かないのは正直親として頼り甲斐が無さすぎる。

 

母は私たち子どもの事は可愛がっていたのは事実だ。だが、母は自分のことは可愛がれない人だった。だから、子どもの私と姉に自分を重ねて自分と同じ部活動をさせたり、自分が可愛がれる姿を作り上げようとしていた。それが母の教育の一つだった。

 

そして私たち子どもはそんな母から憎悪ではなく、感謝を持って離れるべきだろう。

綺麗事ではない、母を母として受け入れ、自分が抱いている母の幻想を捨てるのだ。

いつでも自分の話を聞いてくれて、無駄にヒステリーにならず優しく接してくれて、子どもより男を優先しない母なんていたところで、いつかは同じ様に子どもが巣立つ日が来る。

母という像に抱くは世間が作り上げたイリュージョンだ。それを全う出来るほど人間は出来てもいない。

だから、私は自立を志す。