私の母は超絶メンヘラヒステリックで、父は超絶暴力以心伝心下手男だった。
父に関しては齢50も過ぎ、多角的に物事を捉えられるようになってきたからか暴力を振るうこともなくなり、人の話を聞けるようになれたので過去形で話しても問題ないだろう。
だが、私が覚える私の幼少期の記憶の中では父は常に母と喧嘩をして、時には殴って、私たち子どもを階段から突き落とすような人だった。
勿論、今となればしたくてしてた訳ではなく、母のメンヘラヒステリックについていなくなっての結果だとは理解ができる。でも、私にとって父は永遠に恐怖の対象であることは間違いがない。
そんな2人だ、当然ながら離婚をする。
離婚をしたのは、私がまだ幼稚園の年長で姉が小学1年生の時だった。
とある週末、母方の祖父母の家に母と一緒に遊びに行き、いつものように日曜の夜になると父が迎えにきた。玄関に迎えにきてくれた父に歩み寄り、私たち姉妹は靴を履いた。だが、一向に母は玄関先に座って動かない。いつもと何かが違うと、どれだけ幼くても察することはできる。姉が「ママ、一緒に行こ。」と声をかけた。すると、母が俯いてほんの少しの間を置いてから静かに泣き出しながら「今日からあんたらとは住まれへん。あんたらの母ではなくなる。」と告げた。当時私はまだ離婚という言葉も知らない、言葉の意味を把握できてはいなくてもショックな出来事だとすぐに理解した。姉も恐らく同じだったのだろう、泣きながら絞り出すように「なんでなん?」と言っていた。私の玄関先での記憶はここで止まる。
次の記憶は、それまで家族で住んでいた家に帰り母のいない食卓でご飯を食べるところから始まる。祖母がご飯をよそいながら「この子らには罪はないねんけどな。」と"罪"という単語の意味すら知らない6歳の私はその言葉を聞いて鼻水と涙でドロドロでべっちゃべっちゃなご飯を一生懸命噛み締めながら食べた。祖母だけが味方だった。
父と母が唯一優しかったのは、どちらにも会える環境を作ってくれたことだ。小学生になれば、平日は母の家、週末は父の家を行き来するようになった。そこには感謝をしている。大好きな祖母にも何度も何度も会えた。
だが、所詮は超絶メンヘラの母だ。私が小学2年生になる頃、母の言いつけをあまりに守らなくて宿題も全くしなかったので、母がブチギレて「お前のせいで、家を出て行かなあかんねん!強くなれ、人に優しくしなさい。」と泣きながら家出をした。それから3ヶ月ほど平日は母方の祖父母に育てられた。この時は私は世界で最も最低な娘で生きている価値がないと思った。確かに宿題をしない事も、母の言いつけを守らないのも良くない。だが、まだ2年生だ。そんなに聞き分けが良いはずがない。むしろ聞き分けが良くない方が良い。この母の言葉を27になった今も忘れられなくて、数年前まで好きな人ができてもいつかどこかで捨てられるのだろうと思っていた。人に愛されることはもうないと確信した瞬間だった。
中学生になり、姉が吹奏楽をしていた事もあり、母はとにかく私を吹奏楽部に入部をさせようとした。毎日毎日、家に帰るたびに「今日は入部したか?入らんなら学校やめろ。」と言ってきた。私は本当は演劇部か美術部に入りたかったので、とにかく反抗をしたが、仲良しのお友達と引き離されるのは辛く、泣く泣く吹奏楽部に入部することとなった。吹奏楽部は360日稼働しており、日曜祝日に休みはなく、練習時間は朝の8時から夜の19時までだった。好きでもない無理矢理させられている上に、その練習時間は兎に角堪えた。母には、私の好きなことをさせてくれないという親としての信頼感が殆ど無くなっていた。
そんな矢先、母が妊娠再婚をした。これについては嫌だと思うと私が崩れるような気がしたので、咀嚼もせず飲み込んだ。つまり味がしなかった。何にも思わない。この時には精神が崩壊をしかけていたが、さらなる不幸が私を襲った。
中学3年生の冬、最愛の祖母がこの世を去った。何もかもを失ったと思った。私にとって唯一の味方で、唯一はっきりと好きだと言える人で、辛いという感情に向き合うことすらできなかった。
そんな辛さが募り、私は吹奏楽部を逃げるようにやめた。勿論、母からは人格を否定されるほど怒られた。それでもとにかく好きに生きたかった。
高校生になり、仲良しの友達と放課後を教室で過ごし、本当にかけがえのない思い出ができた。この思い出があるから、今生きられているのかもしれない。楽しいという感情には希望を感じる。
だが、それでも世間の常識は「家族を好きでいること」だ。私は常識から仲間外れをされ、果てはもう2度と誰にも愛してもらえないと思っていた。
大学生になった。その頃は今思えば鬱病か適応障害のなにかになっていた。何にもする気力がわかなかった、どうせ私が頑張っても意味がないし、やりたい事はできないし、生きている意味はないし、愛される事も2度とない。あとは死を待つだけなんだろうと本気でそう思っていた。
そんな大学にも行けず自己否定でいっぱいの中、とある金曜日の夜にテレビを見る。
関西では知らない人はいないと思われるほどのオバケ番組で、土曜日に学校で友達と会えば「昨日のナイトスクープ見た?」と話すのが当たり前だった。
その番組のコーナーでスナックのママに人生の折れ線グラフを書いてもらっていた。色んなママが壮絶な人生を送っていた。私はそれを見ながら、「いやいや私の方が辛いわ」なんて思ったりした。そう思っていると、とある弾けるような笑顔のママが登場をする。このママの折れ線グラフでは私が「負けた」と思うほど辛い人生を生きていた。私なら自殺をしていたかもしれないと思った。最後の最後に探偵の石田靖がそのママに「今はどうなん?」と聞くと、ママは満面の笑みで「人生捨てたもんじゃない!」と自信を持って答えていた。
そのママの言葉にボロボロと泣いた。ちょうどその頃母と喧嘩をして、「お前は地獄に堕ちろ」なんて言われた事もあり、とにかく生まれてきたことを後悔していた。なんで生まれてきたのだろう、なんで生きているのだろうと。自殺する勇気がないのが情けなかった。でも、このママを見て、いつか私にもこんなことを言える日が来るのかもしれないと思った。その日までもうちょっと、後もうちょっと頑張ってみようと思えた。
その日から早6年が過ぎる。
やっと、やっと私も生きてて良かったと胸を張って言える日が来たと思える。それからも辛いことは山ほどあった、それでもその言葉を胸に頑張って生き抜いてきた。
私には付き合って丁度1年の彼氏がいるが、この彼氏に付き合い始めた当初「好きな人の人形になるな」と言われたことがある。この言葉でやっと、私が私を曝け出してワガママを言えるようになれた。本当に"愛"というものを生まれて初めて感じている。
楽しいことを素直に楽しいと言える自分になれた、したい事をできる自分になれた。これから先も辛いことは絶対にある、沢山ある、それでも時間をかけて前を向けるような気がする。そんな自信がなんとなくある。これを幸せ、と呼ぶのかもしれない。
名前も顔も覚えていないけど、ナイトスクープに出ていたママ、私を救ってくれてありがとう。