上から目線
今は全くもって連絡を取ってもいない縁の切れた友人がいた。その友人から数年に一度「上から目線でもの言わんといて」と釘を刺された。
その度に、自分は本当に上から目線なのかどうか悩んだ。別の友人に相談したところ言葉遣いに気をつけさえいれば大丈夫だろと言われたので、それはある程度気をつけるようにした。
私はその友人以外に上から目線だと言われた事はない。
つまり実際には然程上から目線でもないのだと思う。わざわざ上から目線ですよね〜と言ってくる人もいないので本当にそれが事実であるかどうかは分からないが。
その友人が他者よりも人間関係にヒエラルキーを作っているのか、はたまた言葉の端々を敏感に受け取る人様な人だったのだと思う。
いな、思っていた。
私の母はとても上から目線の人間だと思う。あいつはあかん、この子はこうだとすぐ他人を評価付けて採点をしている。
そんな母を毎日側で見て育ってきたが、上から目線だと感じた事はなかった。
その評価を鵜呑みにしていた幼い自分もいるし、人はそんな風に他人の事をとやかく言って生きていく生き物だと認定していたのだと思う。だから母のそれらの言動は人間という生物として当たり前の事なのだと思っていた。それは今でもほとんど変わらない。
だから私は「この人上から目線だな、、」と感じる事は滅多になかった。
そんな私が初めて上から目線で物言ってんなと感じたのが今日だ。
人は人として生きていく上で「○○であるべき」形があまりにも多いと思う。その形をなぞらえている人はとても生きやすいと思う。勿論、形どるまでに幾千もの苦労と努力があると思うし、中には元々形どられていてなんの苦労もなく自分の物として得ている場合もあると思う。
世の中選ばなくちゃ出来ない苦労というのものが存在すると思う。
苦労と言えば強いられてしんどい思いをしているイメージの方が強いが、確実に自ら苦労に近付いていく人もいるのだ。
そんな事をしてしまう人を世は「阿呆」「馬鹿」時には「メンヘラ」と片付けるのだと思う。私はそれは間違いないと思う。怪我をしていないのにわざわざ怪我をしに行って病院に運ばれる人はどう考えたかって阿呆なのだ。
しかし、素直にすれば上手く行く事も知らない人たちにとっては、そんな阿呆に生きる事が生き方として根付いているものである。
阿呆だと片付ける人が元々人間としての基礎が出来上がっていたのか、それとも基礎を築き上げたのかは知らない。でも、「アホな事はやめ」と、アホな事のやめ方も知らない人に言うのはなんと上から目線なのだろうか。そう感じた。一生お前たちは安全圏から見下ろしてアホを見て笑っていればいい。