徒然

読む人に読んでほしいブログ

昔のことを思い出す

 

私は放課後等デイサービス、児童発達支援という発達障害児やグレーゾーンの子ども達を支援する仕事をしている。

 

私の働いている園では個別療養というものがあり、子どもとスタッフの一対一の時間を作り、一人一人に合った療養をしていく。

 

今はとある子どもに個別療養の時間に鉛筆の持ち方を教えて運筆練習をしている。

運筆練習はまずは書く楽しさを覚えてもらうために、何にも書いていない白紙を渡して好きな風に書いてもらったりする。(今回の内容とは関係ないが書いて時間が経てばすぐに消える水ペンなどから書く楽しさを感じてもらうのが個人的には効果的に感じる)

そして、次の段階で運筆練習のプリントに移行する。プリントは線を真っ直ぐなぞるところから始める。

大人ではそんな簡単な事をと思うかもしれないが、まずは"なぞる"が難しい子もいる。

持ち方が自分の中でこだわりが強く筆圧が薄く線がとても細かったり、急いで書いてしまって線がふにゃふにゃになってしまったり、中には何でもかんでも遊びに繋がる天才児もいて、たった一本の線をなぞるだけなのに自分の中で遊びを作りスタッフまでも巻き込んで遊び始めたりする子もいる。

こういったことは児童発達支援、つまりは発達障害児ならではの様に思う。(私は保育園で勤めた事がないので、定型発達の子どもの成長がよくわからない)

 

プリントの1段階前、白紙に自由に書いてもらうときの共通点をつい最近見つけた。

皆んな自由に書いているときは、十中八九紙の真ん中から書くのだ。

 

小学生のある日のことだ。宿題で筆算をする必要があったので、親にそこら辺にあったなんでもないただの裏紙をもらって、その裏紙のあちこちで筆算をしていた。すると親が急に「もったいないから紙の上の端から書け」と怒ってきた。真ん中から書いてしまい書くスペースをすぐに失った私は2枚目を親にもらった。2枚目でも同じようにまた真ん中から書いてしまって、泣くほど怒られた。そんな事で怒るか?と今なら多少に疑問にも思えるが、当時の私は「なんで端から書くことも出来ないんだろう、、私ってほんとダメだなぁ、、」と自分にショックを受けたものだ。だからこんな些細な事をいつまでも覚えているのだと思う。

 

子どもと鉛筆の練習をしていて、皆んな紙の真ん中から書くと気付いた時は驚いた。

子どもは体が小さいから当然の如く視野も狭いのだと思う。(これは何の根拠もありません)

だから、紙の端から書いてと頼んでも端の部分が目に入って来ずに真ん中に書き出そうとする。その上、自由に紙に書かせているならまだしも筆算や何かを書くと決まっているときはそちらに意識が集中しているはずだ。かなり慣れていないと紙の端から書くというのはマルチタスクになり歳が幼ければ幼いほど難しいのではないだろうか。

私の親は"端から書けない私"に着目し叱責したが、(紙の端から書いてもらう必要があるなら)私はスタッフとして子ども達に端から書いてもらう配慮をしている。まず子ども達の視野の真ん中に紙の端を持っていったり、そもそもA4サイズではなく折り紙サイズの紙を子どもに渡す。こういった配慮がお互いを生きやすくするのだと思う。

 

育児というのは過去を想起し、自分のわだかまりを解消していったり、過ちに気付き反省を繰り返していくものだと思う。この過程があって、やっと少しだけ一人前になっていくのだろう。

私は子どもがいないので、育児ではなく職場でこうして自分を振り返り少しずつ自分を納得させていっている。

世の中の何割も子どもに関わりこの様な想起をしている訳ではない。でも、時折はこうして過去の自分を他人を通して見つめ合う時間を作り、気付きを増やしていけるような社会であって欲しいと願う。