さようなら
記憶とは厄介なものである。
嫌なことさえ覚えていれば、ここまで辛くなることも悲しくなることもなかった。
幸せな記憶が、まだ私の頭の中で何度も何度も再生される。
その事を自覚する度に、もう会えない彼を感じた。
これで彼の記憶喪失は3度目である。
2回目に記憶がなくなった時に、2度あることは3度あるのだろうと決意をしていた部分があるので、記憶喪失そのものに対する心のガードは作れていたように思う。
しかし、これまでと違うのは、完全にただの他人になってしまったということだ。
記憶さえあれば、きっとこんな辛いことはなかった。
でも、辛いと自覚すると、もう無理だと自覚をすると彼のことを諦めてしまうのだろうと感じていたから、どうしても自覚はしたくなかった。
辛いということは分かっていたけども、私より記憶喪失にまでなるほどズタボロの彼の方がきっと辛いに決まっていると思い聞かせていた。
事実、きっと彼も辛かろう。
しかし、私は私で非常に傷付いていた。
本当に幸せだった。
記憶がある時はずっとずっと私のことを本当に大切に思ってくれて、愛されていたと思う。
でも、その幸せな時間が余りにも短過ぎた。
その記憶に縋りついていたい。しかし、もうしがみついている縄は千切れそうだ。
この半年間、本当に長かった。でもあっという間だった。彼がいたから幸せだったし、でも、苦しかった。
彼と仲良くなりだした頃、彼に優しい言葉を少しかけたことを覚えている。
その言葉を発した時に私の中でどこか責任感が芽生えたのだと思う。
こんな優しい彼が求めている言葉をかけてしまうと、彼はほぼ確実に私のことを好きになる。私に頼って、甘えてくるようになる。きっと彼の存在はとてつもなく重い。それでも私は背負い切れるのか。と、自問自答をして、彼にとって優しくどこかお母さんの様な甘えられる存在であることを選んだ。
実際、現実はその通りになっていったと思う。
しかし、私が予想するより遥かに、彼が元々背負っていた荷物が重過ぎて私には抱えきることが出来なかった。
私が我慢をすれば良いのだと思った。
だって、それが優しさだと思ったから。
しかし、優しさとは自己犠牲である。
長続きはしない。
正直、まだまだまだまだ時間も愛情もかけたいし注ぎたい。
そのためには、幸せな記憶のみを頼り、辛い記憶を追い出す必要があった。
辛いという事が分かってしまえば、きっと私の体はそこで止まるということを予測していたのだ。
しかし、別れてから随分と時も経った。
もう私の好きな彼も、私のことが好きだった彼も帰ってくることはない。
そんな気がする。
幸せな記憶だけ再生され続けていると、今度はありもしない現実だと認識するようになる。
さようなら、
まだ君のことは何度も何度も思い返して、欲してしまう時はある。
でも、もう戻らないものに縋りよるのもしんどい。
ありがとう、この半年間は本当に幸せだった。
きっと私の愛した彼はもういない。君もきっといつか私以外のどこかの誰かと結ばれて幸せになるのだと思う。
もちろん私もきっとどこかの誰かと幸せになっていると思う。その時、私はきっとふと君のことを思い出せるけど、君はもう思い出すこともかなわないんだね。
でも大丈夫。
私だけがちゃんと覚えているよ。
結婚しようって言ったあの日、君は泣きそうな顔をしながら私に「繋ぎ止めておきたいから」と言ったね。あれは、私のことも記憶のこともだったんだね。
もう大丈夫、繋ぎ止めることもない。
さよなら、大好きでした。