徒然

読む人に読んでほしいブログ

ジャニオタが恋愛をした話

 

トラジャがアメリカに行って修行をするらしい。私はトラジャ担ではないし、既にジャニーズを辞めた人のオタクをしているので蚊帳の外だ。

 

渡米に関してトラジャ担はもちろんの事、大勢のジャニオタがそれぞれの意見を述べていた。

 

メンバーはどんな意図で渡米を提案し、決意をしたのかは分からない。だが、決定されたその事実とメンバーの言葉の一部から皆んなそれぞれの憶測と欲望からあるゆる発言をする。

 

オタクの欲望とは怖いものだ。

 

好きであればあるほど、こうなって欲しいという願望は肥大化していく。お金をかけているから当然かもしれないが、好きなものが段々と自分の好みになっていって欲しいものなのだ。

教育ママがお金をかけて秀才児を作りたがるのと構図は似ているのかもしれない。お金をかけたらかけた分だけ、成長の期待値は高い。

 

そう、ここでお金の使い方がオタクとしての心情を左右することがよく分かる。

 

まずは前述のように、期待値にペイをするとその分だけ思い通りにいかない現状に対して納得は出来ないだろう。人によっては、それが憤りになる場合もある。

そして、現在の見せられたエンターテイメントに対してペイをする場合。これは比較的オタクとしての気持ちは楽だろう。好きなものに好きな分だけ払ったと自分で納得もできれば、自分が納得のいく分だけペイをするという制限を設ける事もできる。

 

長くオタクをしたい限りは後者である方が、良いだろう。期待は少なく現状に満足出来ているから、その都度お金を払えば良いのだ。

 

 

 

 

 

私は、彼氏がいる。

これまでの私の人生は他者の話を聞いても比較的苦労をしてきたと言われる部類だ。誰しも苦労はあるので、基準などないしここに正誤を見るつもりはない。

この苦労が根に張り付いており、私は好きな人に嫌われたくないという願望が非常に強い。

だから、私はワガママは殆ど言わない。というよりかは言えない人間だ。

自分なりに相手に対する信頼がない事がそうさせる原因の一つだと良く分かるので、しっかり相手と話し合い信頼するように向き合ってきた。

 

 

それでもワガママは言えない。最早私の中にワガママはない。

 

 

彼氏に「好かれるために自分を犠牲にするな。俺のことだけを考えると、マネキンの相手をしているようだ。」と言われてしまった。

 

これを言われた時はショックでかなり心を閉ざした。だが、冷静になれば彼の言っている事も良くわかる。

私はどうやらジャニオタを多く見過ぎたようだ。お金を多くかけて愛してもらえる人というのは、相手好みになる事だと本気で思っているのだろう。それを彼にはマネキンと言われてしまったのだ。否、言わせているのだろう。

 

長年ジャニオタをしてきて、後者のタイプは些細な事では担降りもしないし担当の事を本当の意味で尊重ができている人が多いと思う。

きっとそれは、依存をしていないからなのだ。

他人のためにペイをしている感覚はないのだろう。それこそ、ペイの分は自己満で済ませる事ができる人たちだ。

対し、前者のタイプ。この人たちは担当に抱く願望も大きければ感情も大きい。担当の些細な情報一つに日常を動かされている。好きなのだから、当然かもしれない。だが、その好きとは常に一直線で、その上一方通行だ。自分の好みでいてくれる人たちが好きだから、好きの矢印は中々方向を変える事ができない。自分の矢印の上で走り続ける人が好きなんだ。

 

私は前者のタイプの、担当のような存在でいたかった。

そんだけペイされるという事は、そんだけ好きという事なのだと思うから。私の事を毎日考えて一喜一憂して欲しかった。それくらい愛されてみたかった。

これを私のワガママだと思っていたが、どうやら違うようだ。これは彼に愛され続けるための生存戦略なのだろう。そのくらい相手を自分というエンタメの沼に引き摺り込んで、そこから出したくないだけなのだ。それは牢獄に過ぎない。

これを喜んでやれる人は、いない。そもそもしない方が良い。

 

恋愛はエンタメではない。

人と人のぶつかり合いだ。

 

私はそろそろ自分の恋愛演出家としての帽子を脱がなければならない。だが、演者でもない演出家でもない私に何が出来るのだろう。

私は、どうすればワガママが言えるのだろう。答えはまだ見つからない。

お友達の話

 

アラサーと言われる年齢に足を踏み入れ、ふわふわしていた若者としての気持ちが徐々に角を作り形となってきた。

 

私には中学からの付き合いのツレが1人いる。

そのツレは文系だが、大学院に行き、広告代理店に就職をした。

その友達が去年仕事を辞めて、長年の夢であった構成作家として歩み始めた。

手取りは月6万という社会人の私にとっては雀の涙のような額だ。それでも自分のしたい事を選んで、邁進している。

友達は「収入は前より確実に減ったけど、でも今の方が楽しいし良い!」と自信を持って答えていた事が眩しく映った。

 

私はどうだろうか。

そんななりふり構わないほど我武者羅に生きているだろうか。自己実現を叶えているだろうか。

昔、上司に仕事を辞めたいと相談したら「世の中には自分のしたい仕事ができてる人なんて滅多におらん。」と言っていた。

その時は、なんとも誰でも言えそうな月並みな言葉だと思って辟易して辞める決断が更に固まった。

今となってはこの言葉の本質は"やりたい仕事が見えている人は少ない。今の現状を満足する事はできないのか?"という部分にあったのだろうと思える。

きっと私の向かう先は、その人にとっては不満からの逃げにでも見えていたのだろう。だから不満なのは誰しも同じだと伝えてきたのだ。

 

私はこの先どうやって自分の腹も心も満たして生きていこうか、そう思いながらこうして文を綴るだけで精一杯だ。

 

映画『花束みたいな恋をした』を見て

※ネタバレ含みます

 

 

恋は泡沫で、ずっと何となく楽しいは続かない。

 

主人公麦と絹は、好きなものがとにかく同じでセンスも似ている。そんなセンスの似ている2人が度々重なる偶然に何度も立ち会うと、「これが"運命"なんだ。」そう感じるだろう。

そうして、イヤホンの様に運命の糸が絡み合うと距離をすぐに縮めた。

 

大学生は有り余る時間を使って、自分のあれこれに耽る。色んな世界に没頭する中で、自分を重ね、自分を探す。好きな作品がよく被る2人は、2人で作品を見ている時にお互いのセンスをぶつけ合う。そのやり合いが自分を一段高みへと連れて行ってくれる。そんな楽しさがあったのだろう。2人で一緒に世界を広げていたのだ。

 

絹ちゃんは、ずっとそんな日々が続くと思った。

麦くんは、ずっとそんな日々を続けるための安定を欲した。

 

麦くんは、絹ちゃんとの未来のために自分を納得させリアルへと向き合う。

社会に出た麦くんは、腹立つことも上手くいかない事も多いけど金銭的には安定を得られるし周りに頼りにされていく事に充実感を得ていく。

自分のセンスで戦うと一度は決めた彼だが、他の可能性が自分にあると気付けば視野は広がるものだ。自分に対する期待と周囲からの期待による責任感が彼の背中を押し、邁進していった。

彼は彼で違う青春を歩き始めた。

 

一方で絹ちゃんは、現を抜かしてまだ夢の中だった。

絹ちゃんは麦くんと世界を広げる時間が好きだった、いつだって彼女は自分の世界を広げてくれる、センスに溢れた人が好きなんだ。

お砂糖とミルクたっぷりの甘い甘いカフェラテを好きで飲んでいるのに、糖尿病になるよと言われて甘さ控えめのややブラックのコーヒーなんか出されても彼女は飲めないのだ。

絹ちゃんも分かっている、麦くんが大人になった事は。それを駄目と言ってはいけない事も。

だけど、彼と夢を語る時間が好きだった彼女にとって、その時間がなくなると、彼女には何の刺激もなく、甘い甘いカフェラテも冷めて、砂糖は底に沈んでしまうのだった。

 

スケッチブックに線画で描かれるセンス溢れた青写真が見たい彼女と、

アルバムに家族で幸せそうな写真を敷き詰めた青写真を撮りたい彼。

 

恋は泡沫、花は枯れる。

 

そう言えばマーガレットの花言葉ってなんだったっけ。

そうだね、愛も色々あるんだよ。

漠然と

 

来る師走の月、私は26歳になった。

25歳の時は四捨五入をして30だな、だけどまだ若いし。そんな風にまだ気持ちはどこか10代に足を残しながら思えた。

だが、26歳はそうはいかなかった。もう私は30を目前にした大人であると認識させられた。めでたい誕生日ではない。

 

今年、28になる姉が子どもを産んだ。

それまで顔付きが女だった姉の顔が母になった。輪郭が鼻が目が口が変わる訳ではない、だが雰囲気が纏う空気がそう私に告げるのだ。

義兄さんから送られてくる一枚一枚の写真を見る度に、人生で長い時間を見てきたはずの姉の知らない顔を見ることになる。

 

鏡を見る。

まだまだあどけない芯のない顔の私がそこに存在する。鏡の中の私が、私を指差しこう告げる。「大人になれ。」と、一言。皆まで言うなと、私は頭を抱えるが鏡の中の私は私に目でずっと現実を訴え続けた。

 

青い自分に憂鬱となりながら、家の中を彷徨う。ふと父が寝ている姿が目に入る。その父の寝姿は以前のように大胆ないびきをかいたり、1日の疲れを吐き出すような眠りではなく、老いからくる眠りだとすぐ分かるほど大人しいものだった。いつまでもエネルギッシュで元気な人だと思っていたが、私も歳を取れば当然親も老ける。

 

これらが私を「このままではいけない」と教える。

 

26歳の今の私はミュージカルにアイドル、2次元と好きな事を好きなだけ楽しんでいる。

これは悪い事だとは思わない。特に他人がこの様な状態であれば、「素敵だね」とすら思うだろう。だが、今の私はただ手放しになんでも楽しめるだけの無責任な子どもというだけである。

姉の顔付きが変わったのは、母としての重責だ。そして父の老いは、娘が母となった安堵だ。

私はそのどちらにも参加が出来ない。

こんな虚しい事はあるのだろうか。

私だけが私の責任のみを背負って生きているのだ。これは恥なのかもしれない。

人が40年50年と立派に生きるために、自分の責任以外も感じなければならないのだと思えた。

 

ただ流れる様に生きたいのであれば、今のままで良いのかもしれない。

だけど、それで未来の私も今の私も満足しないだろう。

人生は楽しい事ばかりでは構成出来ない。仕方なく大人になるのではない、私は選んで大人になるのだ。

こんな未来も

 

前の会社の社長と私が会社を辞める原因となってしまったおばあちゃん保育士が並んで2人で車に乗っている。社長は運転をしながら、助手席に座る保育士と話している。

私は後頭座席から、その様子を見ていた。私の横には、私が最も頼りにしつつ尊敬している責任者が座っている。その人は「いやいや」「そうじゃない」と2人に聴こえるか聴こえないかの小さな声で時折反応を示した。

 

社長と保育士は、とある小学生の男の子の話をしていた。

この小学生は非常に賢いが故に周りと上手く付き合いきれず、自分を発揮する前に強がってしまい周りの子どもにも攻撃的になってしまうような性格だった。

私は危うさも理解しつつ、その子の不器用さが愛おしかった。

彼は本当に手を出し始めると止まらなかったし、手を焼くタイプではあった。だが、彼は自分のことを見て欲しいし解って欲しかった。それが全て裏目に出ていただけだ。常に自分が優しく人に出来る場面を探していて、手伝えそうな事は全部やろうと何でも動いていた。そうして人に一生懸命に好かれようと必死だった。

彼と一対一で話すと「今日は薬飲んでないから、小さい子に手を出すかもしれない。大丈夫かな、怖い。」と話してくれた事を思い出す。本当は誰よりも誰よりも優しい子どもだった。

 

保育士は社長に、彼の顔から笑顔が減ったと言われていた。

実際私が働いていた頃もその会社の別店舗の方に彼が移動させられていたので、そちらでは彼の扱いが雑になっており笑顔が減っていっていたように思う。

それも知った上で私と責任者が少しでも心の安らげる場所を作りたいとよく語っていた。

保育士は、「そんな事ないです。彼はやり過ぎだから社会の厳しさを、、、」などと根性論のような事を社長に言う。

それを聞いて責任者と私は、それは違うと言葉では言わないけどもアイコンタクトで交わして意見の一致を確認した。

すると責任者が言葉を発する前に、社長が「それは違う。君(保育士)がそんなやり方をするからだ。」とハッキリと言っていた。

その後も社長は保育士に、何故そのやり方がいけないのか様々な理由を述べていた。

私はそんな事を言う社長に目を見張った。やっと彼には怒る時も静かに優しく語りかけるように、何故してはいけなかったのかお互い話し合いながら怒る事が大切だと社長も分かったのかと本当に嬉しくなった。

保育士は怒って泣いて、車から降りて行った。

保育士を追いかける事もなく、空いた助手席には責任者が座った。

すると責任者が辞める今だからと、アレコレを社長にポツリポツリと少し笑いながら話し出した。やっと2人が手を取り合い話していた。

今なら私も社長とやっと前向きな話が出来ると思い、その会話に参加をした。

深い話をする前に、子どもの保護者から連絡がきて子どもを迎えに行く事になり、私は車を降りなければならなくなった。

そして、雨の中子どもを探した。

 

 

 

そんな夢を見た。

私は前の会社を辞める時に最後の最後まで社長ともしっかり腰を据えて話す事は出来ず、とにかくその保育士と社長に疎まれていた。

保育士は責任者が辞める前までは、非常に懇意にしてくれていたのに、責任者が辞めるとなると急に周りに対して厳しくなっていった。私は子どもたちが安心できる居場所が作りたかったから、その様な教育的な事は意地でもしたくなかった。

社長は保育士のやり方を支持しており、それに反対意見を示す私は厄介な存在だと思っていたのだろう。嫌なら辞めろと堂々と言われた事もある。

子ども達の事を思うと何度も何度もまだ頑張ったほうが良いのではないかと悩み、でも結局は他のスタッフに背中を押されて辞める決意をした。自分のやってきた支援に自信を持って、彼らならどこでもやっていけるようになれる支援をしたと自分に言い聞かせた。

責任者は社長と子どもの支援方針で何度も言い合いになり、頭を抱えていた。

責任者はずっと辞める機会を探していたのだと思う。とある信頼しているスタッフが辞める事になると、雪崩れる様に責任者も辞表を出した。

そこからは、これまで私たちが築いてきた物がゾロゾロと崩れ始めた。時間や責任が全て音を立てて壊れていく様子を私は毎晩毎晩涙を流して悲しんでいた。

保育士と社長にとって都合の良い様に、大切に守ってきた場所が建て直されていった。保育士と社長が発言をする度にショベルカーがそこを瓦礫にしていって、私は子どもにそんな様子は見せたくないと子どもを胸に抱えて砂埃を被った。責任者が辞めた時から今日までずっと砂埃が肩についていた。

 

今日、責任者と頼りにしていたスタッフと会い念願の飲み会が開かれた。

責任者はずっと社長からの嫌味を堪えて聞いていた事を吐露していた。だから、責任者にすると私の夢の話はきっとあり得ない事だったと思う。でも私はそんな未来をどこかで未だに期待をしていたのかもしれない。

否、諦めきれなかった。どこかで何か自分が間違ったのだとずっとずっと責め続けていたのだろう。瓦礫になる様を見ているだけでなく、動きたかった。大切なものを守るための力が欲しかった。

それがなかった事が何よりも苦しかった。

 

その時の私と今の私にはそれが出来なかった。人生は二度はない。だけど、二度目があるなら社長と保育士と上手くやっていきながら取り込みながら皆が心安らかに過ごせる場所を作りたい。夢を夢だけで見ずに、現に残せたら幸せだ。

 

 

ミュージカル「ソーホーシンダーズ」を見て

このブログは観劇の感想を述べると共に、内容にも触れますのでネタバレも含まれます。未観劇やネタバレが苦手な方は回れ右でお願い致します。

 

「彼が変わると思った?」

 

ヴァルクロがマリリンを慰める際に使った言葉だ。

マリリンは、それに"yes"の返事をしていた。

人はなぜ愛に可能性を感じるのだろうか。

 

私は元彼が記憶喪失だった。

彼の記憶喪失かもしれない片鱗は付き合う前から知っていたし、どう考えても危ない男だった。

でも、愛に飢えた彼を満たしたいと思った。

私が愛し支え続ければ、いつか変わる日が来ると思った。

客観的に見れば、そんな無茶な話と思える。だが、好きになってしまったら信じてしまったら一縷の望みを期待をしてしまうものが人間だ。

彼の記憶喪失に振り回され、疲弊しきっていたのに、それでもなんとかなるなんとかなると自分を勘違いさせ続けた。

それ程に思うほど記憶ある時の彼には愛されていたと思う。

だが記憶とは厄介なものだ。

彼女である時間が積み重ねられていくと幸せよりも、もう記憶が消えた時の辛さや突然記憶の消える彼に振り回されるしんどさが勝っていった。

あまりの悲しみに耐え切られず別れを選択した。その事を当時は、彼を愛していた私を裏切ってしまったと思っていた。

記憶が混濁する彼に抱きしめられながら「繋ぎ止めたい」と泣きながら言われたことがあった。

その記憶が毎晩毎晩反芻された。

 

劇中歌で、「自分が自由になる事で、相手を自由にしよう」(うろ覚えです、すみません)と歌っていた。

 

今はやっと彼との事を冷静に語れるほど、過去のものにできた。

やっと自由になれたと思う。

彼も私といるのは色んな意味でしんどかったと思う。電話で彼に「好きな子すら俺は忘れるのか。」と言われたのが最後の会話だった。でもその好きな子が彼にとっては、とてつもないプレッシャーだったんだ。やっと彼を手放した様な気持ちになれた。

 

しんどかった。

でも、間違いなく言えるのは、彼を好きになって良かった。

トラウマも強くて、彼との幸せな時間は固く蓋がされていて、1年前の事なのに思い出せない。それでも、彼と付き合えていたのは幸せでもあったからだ。

だがその幸せはあまりにも大き過ぎた。大きな幸せは続かない。

 

あえてハッキリ言おう、この世に幸せはない。

ただ、楽しい事は溢れかえっている。

今はもう幸せを追求しなくなった。でも楽しい事はしたい。楽しい事が積み重なると、きっと10年後20年後、その先もっと思い出話を語りながら笑える日が来る。

その時に「あー、人生って幸せだなぁ。」と言える事ができれば、人生は幸せになったのだと思う。

 

 

いつか本物に

 

嘘も吐き続けていれば、本物になる。

 

これは嘘だ。

いつか本物になる日が来るかもしれないだけだ。その日を迎えるためには、それ相応の覚悟を持って嘘を吐かなければならない。ましてや、本物にする為には努力が当然であるが必須となる。

 

さて、ここで人を騙すための自論を展開しよう。

人を騙す為に必要なものは環境と知識、そして継続性だ。

まず大前提として嘘をまかり通すためには、本物がいない所に行く事は必ずしなければならない。本物がいると直ぐに自分は偽物とバレてしまうため、その様な人間が揃っている場所は必ず避けなければならない。

 

例えばだが、Twitterや配信アプリ等に蔓延るメンヘラ女子どもは必要以上に女子とは関係を作らない。これは、メンヘラ女子でいるためには自分が圧倒的に可哀想でなければならないからだ。彼女らは可哀想なお姫様になれる環境を常に作って生きながらえているのだ。

これは自分の魅力を可哀想な部分であると履き違えてしまった、或いは苦労から脱する事にしか努力のリソースを割いてこれなかった人間が陥る錯覚だ。

このお姫様には経済的且つ政治的に国家を支える家臣及び住人が必要となる。つまりフォロワーやリスナーがメンヘラ女子に貢いで、配信やTwitterを生き延びさせるためにコメントや絡みに行かなければならないと言うことだ。

しかし、この家臣や住人も頭を持った人間だ。視界にお姫様しかいないという訳ではない。段々とこのお姫様は確かに可哀想だと言わせる所以はあるけれども、もっと苦労をしている子、つまりは"本物"はいると気付き始める。

家臣や住人達は弱い女の子を守ってあげたいという男の子の使命を果たすために、お姫様に仕えている。ならばその真実に気づき始めると、より"ヤバそう"な国へ移住をし始める。

すると、お姫様はどうするか。

より可哀想に、よりヤバくならなければならい。自分の武器は可哀想である事としているため、その武器を磨くしかないのだ。そうして"本物"になろうとする。

こうしてお姫様達は国家を作り上げている。

 

最も、可哀想であるための材料は次第に尽きるものだ。人間は普通に生きていれば案外幸せになれるのだから。

では、どうすれば可哀想を演じ続けられるか?

 

そのために必要な物、それは知識だ。

本物に備わっているものを知る事、そしてそれが断片だけを切り取ったような物では、すぐに仮面が崩れる。だから本物のお勉強をする。

あちらこちらから可哀想なお姫様を構成する材料を資源を集め出す。

そうして知識を蓄えたお姫様はより本物らしくなっていく。より可哀想に見せる事が、嘘をつく事が上手になっていく。

 

だが、お姫様がどれだけ手を尽くして可哀想になっていっても到底本物にはなれない。魔法は長続きしない。

段々と家臣や住民は目を覚まし始める。「この子は本当は自立が出来ないお姫様ではなく、自立をする気がないだけの女の子なんだ」と。

家臣達は、俺たちが国を支えているからお姫様が"何とか"今日も生きているのだと信じてきていたが、本当はそれこそが国家を存続させる策略だったと気付き始める。

すればどうだろうか?策にかけられた家臣達は"騙された"と思い出す。そして、家臣達は新たなお姫様を探しに出る。

お姫様は家臣達が住処を他所に見つけ出そうとしている事に焦りを覚える、しかしもうお姫様にはこれ以上不幸になる材料は残っていない。

 

お姫様はそこで気付く、"ずっと可哀想でいなければならない"と。

 

ずっと可哀想でいるために、ずっと嘘を吐き続けるためには何が必要か。

多少はリアルを混ぜ、らしく見せる事だ。可哀想であればあるほど、自分の中の可哀想の価値は上がるが、それを保ち続ける事は困難だ。

だから、続きやすい程よい嘘を吐き続けることが周りの魔法を解けさせない1番の手立てとなる。これが、冒頭に告げた継続性だ。

 

 

お姫様よ、

こんな事を続けている君はいつしか本物になってしまった。憧れを手にした気分はどうだ。

でもキリがないだろう?世の中に不幸な奴はごまんといる。

君らが本当に抱くべき憧れは、素直さだ。

素直に自分が可哀想だった、可愛い、辛かった、嬉しかった、悲しかった、腹が立った、憎かった、羨ましかった、など色んな感情を受け止め、そして人の感情も受け止め、自分も受け止められる。

すると、やっと本物のお姫様になれる。

いつかきっと。