私は天才じゃない
障害受容に時間がかかる、
そう大学で学んだが(当方社会福祉学部卒)そんな事はなかった。
むしろ、ADHDと聞かされた時に安堵した。
自分は元々欠陥品だったのだと。
努力不足だからどうしようもないのではなく、生まれた時からどうしようもなかったのだと。
その様なことを考えてしまう程、私は自分の努力を否定して生きてきたのだと、この文章を書きながら痛感する。
自分がADHDだと診断されてからは、ADHDについてよく調べるようになった。
現在は児童発達支援と放課後等デイサービスで働いているので、これらの知識は自分だけでなく、より多くの人の役に立っていると日々実感しているので結果的に良かったと思う。
大体ADHDやASDについて調べたら、どこでも「才能がある」「芸術性に富んでいる」などの文言を見かける。
私はこの言葉を鵜呑みにし、自分の才能を探し出そうとした時期があった。
結果、私にはそんな才能はなかった。
著名人や芸術家の特徴や傾向を調べたら、結果として発達障害者が多かっただけで、発達障害者に才能があるという事ではないのだ。
そもそも、発達障害者は奇人が多いように思う。その様な人達は大抵社会に馴染めず、芸術性などの一人で課題達成を成す部類が行き着く先になっていくのだ。
私も二十歳頃までは、ネットにある職業診断で「芸術家系」と診断される事に喜びを感じていた。この歳になると分かる、あれはどこにも所属出来ない社会不適合者に与えられる称号だ。
個性に溢れている、だなんて言葉に踊らされていたのが懐かしい。
話を戻し、
私は自分に秘められた才能を探すべく、先ずは絵を描いた。
それなりには上達したが、それなりだ。天才などと呼ばれるほどでは無い。
次に、小説を書いた。
小説を書くためには、かなりの時間を要した。なにせ、想像力よりも文章力よりも自分の人生経験がないと書けなかったからだ。
実体験にしてない事は、書けないし、それを書くためには経験を補うための大量の知識を要する。私にはそれが欠けていた。
次に、音楽にのめり込んだ。
音楽だけは、中高の吹奏楽部のトラウマが強く抵抗感が強く、すぐに手を離した。
一般的に才能が必要だと言われがちの3つのものに手を出した。
私には才能がなかった。絵を描く才能でも、文章を書く才能でも、音楽を奏でる才能でもなく、
創作をする才能だ。
創作に置いて最も重要なのは、
才能でも努力でもなく、マグマのように湧き続ける創作意欲なのだ。
それが才能だ。
これを持たないものは、天才にはなれないのだ。勿論、多少は絵や小説を書いていたので、私にも書きたいものがあったが、微かなものでしかなかった。
それに気付いた時には、自分には才能すらもないと絶望感に苛まれた。
しかし、同時にある事にも気が付いた。
才能というのは、特別な事ではないのだ。
ちょっと変わった特別な事を得意とする事が才能ではない。
誰でも出来そうな事や、普遍的な事を得意とする事も才能だったのだ。
こんな簡単な事を分かるまでに多くの時間を要したが後悔はない。
自分なりの才能を見つけた今、私はとても楽な気持ちだし、楽しいと思える仕事をしている。
発達障害は注目を浴びたがる人が多いという事を聞いたことがある。
その説を真に受けて話すならば、特別なことをできる事により自分を見て欲しかったのだなと思う。
(今も自分は特別でいたいと思うし、人の目を引くような人間でありたいとは思うが。)
特別な才能を持ち合わせていない事は、残念な事でもなんでもない。
私は天才ではないが、十分幸せだ。