徒然

読む人に読んでほしいブログ

自分って

 

人は他者との関係性の中でしか、自分と向き合えないのだ。

人が社会に揉まれ生きていくことは定めであり、そこから逃れることは出来ない。

どこのかの偉いおっさんが人間の悩みは全て人間関係にある。だなんてことを言っていたような気がする。

 

自分という人間を皆はどう捉えているのだろうか?どう向き合っているのだろうか?

私はとんでもないマウンティング女だけど、ユニークな一面もありなんだかんだで人に好かれる人間だと思っている。

 

本当にどうしようもないマウンティング女で、すぐに周りに自分という存在をアピールしてしまう。特に、自分より劣っていそうだと私が感じたら(勘違いに過ぎないが)、自分の存在感をすぐに表現をしてしまう癖がある。

これは同時に自分のポジショニングが苦手であるという事も示しており、相手の中の自分を過大評価してしまうのだ。

そのため、節度を弁えられない言動をしばしばしてしまう。

 

こんな事を何年も何年もしておきながら、なんだかんだでここまでやってこれたのは紛れもなく周りの友人のおかげだと思う。

「お前はな、なんだかんだでええ奴や。」と常套句の様に言われてきた。

この言葉に何度救われたのだろうか。

 

しかし、このままでは犠牲者を生むだけである。

例によって自分の彼氏は自分の支配下に置きたいので、彼の能力を認められなかったり、本当に情け無い様である。

だが、私かって人を愛したいし、愛されたい。だって人なんだから。

 

だから、今の自分がこんな自分を変えるために今の自分を知っていこうと思う。

 

1.自分は承認欲求の塊であると認める

これは人として生まれてきたからには仕方のない側面もあるのかと思う。

心理学界隈では非常に有名なマズローの欲求5段階というものがある。

 

f:id:kyaamoe:20201110124201p:image

 

今の私は4段階目にいるのだ。社会人になり、自分で内定を掴み取り、自分の居場所を社会で見つけて3段階目を超える事ができた。

余談にはなるが、この2段目の安全の欲求から3段目の欲求の移り変わりについて個人的見解を述べよう。

2段目の安全の欲求というのは、一言で言われるとピンとは来にくい。児童発達心理学界隈で有名なボウルビィは「アタッチメント(愛着)」についての研究をした。

(ここから先は、しっかり文献を読んできた訳でもなく大学時代に得た知識のみで語るので、間違いもある。しっかり参照しなくてすみません。)

そのボウルビィが唱えているのは、

 

愛着関係がしっかり形成されている子どもは、自由に外で遊び回ることができる。

しかし、愛着関係の形成が疎かになってしまった子どもは親元を離れて遊べないのだ。

 

これはすなわち、愛着関係を結べている子どもは自分は外で遊んでも帰る場所があるという安全感、また親元に戻ってきた時に「まま!ぱぱ!これ見て!」と親にしっかり見てもらっているという安心感があるのだ。

 

2段目の安全の欲求というのは、この自分は大丈夫だ、守ってもらえる場所があるという安心感の様なものを指すと思っている。

そして、その安心感を経て人は3段目に突入する。2段目までは、自己の内側にあるもので、3段目からは社会側つまりは自己の外側への欲求に変わる。

 

私は前述したように、今は3段目を登って4段目に辿り着いたところだ。

やっとどこかに所属できたという安心感を得て、その先で見た景色はまだ真っ白だったのだ。自分が社会で何が出来るか、それを問われる段階に来たのだ。

だから、他者からの評価に異様に敏感で、本来は自分で向き合わなければならない自己の問題も他者に丸投げし、その評価を自己評価だと勘違いして、自分の中に落としていった。

しかし、そうではない。他者評価も勿論大切ではあるが、その評価を中心にして生きてしまうと、自分が何をしたいのかが見えなくなってしまう。

私は自分の欠点と向き合うのが怖かったし、等身大に評価をする事を避けてしまって、余計に認められたいという気持ちが大きくなり、他者に等身大以上の自分の評価を求めて安心感や満足感を得ようとしていた。

Twitterやキャスという媒体はそれらをするには最高のツールであった。自分の言葉で自分を表現でき、また他者の目に入りやすいシステムとなっている。「見て!私こんなに凄いの!」とアピールをしてきた。

まぁ、しかし他者はそこまで私ついては興味がない。中には興味を持っている人もいるが、それも私が勘違いしているほど絶大な興味でもなく、多少のものなのだ。

私は私が好きだから、自分に対して凄く興味がある。それは当然のことで、でも周りも同じように自分のことを好いていてくれて、興味があるとは限らない。

 

結論、私は自分を認めるという行為を他者に委ね、他者の評価を丸呑みし、自分という存在から逃げていた。

では、私はどのように自分を認めれば良いのだろうか。簡単である。努力を怠らないこと、サボらないことだ。この努力も高めを設定するのではない、自分が出来る程度なのだ。

 

2.都度都度慰めを乞わない。

まずは自省をすることが何より大切だ。

自分が悪いのに、その度に「私こんな事があったの!可哀想!」と言っていてはいつまで経っても成長はない。

省みるのも、慰めるのも全て自分でするのだ。勿論、他者に甘えることも必要だが、それは自分で全てやってからすること。

傷付くのも自分だが、同時に学ぶのも自分だ。他者に慰めを乞うてしまうと、そこから学び得るものは非常に少なくなる。

どんなに痛そうでも、まずは自分の傷を見ないとどんな治療が必要なのかは分からないのだ。それが自分と向き合うということだ。

 

3.世の中には優劣を気にしない人が多数いる。

人と比べることで、自分の価値を見つけてきた私にはにわかに信じられないことだが、本当にいる。

いや、自分の価値を見つけてきたというのは正しくは間違っている。あの人よりかはマシと安心をしてきただけに過ぎないだろう。自信がないから、他者と比べ、他者を下に置き安心をしていたのだ。

また或いは私がコンプレックスに思ったいる事も他者にしてみれば「それがどうしたの?」程度なのだろう。つまりは劣っている部分があったって別に構わないということだ。

 

これらが今の自分の欠点や知らなければならない事だと思う。

こうして文にして、私は自分なりに飲み込み、不味くても薬として処方をするしかないのだ。

どんだけ酷くたって薬を飲めば多少は楽になるだろうから。