理解と受容
「誰にも分かってもらえない」
という事ほど孤独を生み出すものはない。
孤独とは、死ぬよりも辛いものなのだ。
映画「joker」を見てきた。
バッドマンシリーズは一切見た事はないため、ある意味先入観がなく鑑賞が出来たと思う。
感想は、
「人は社会に迎合をされて生きなければならない」
というところに落ち着いた。
社会と一口で言っても、様々なものがある。
大学時代に社会とは3つに分けられるという事を学んだ。
ミクロ・メゾ・マクロ。
ミクロは家庭などの小さな社会、メゾは家庭から少し踏み出て学校のクラスなどの中規模の社会、マクロは更に大きく地域などの大規模な社会。
この3つの社会全てに受け入れられている人もいるのだと思う。
そういう人は、この映画を見てもきっと共感や理解を出来ないままスクリーンを眺め続けることになる。
映画の主人公であるアーサーはどこにも理解と受容、つまるところ迎合をされなかったのだ。
まずは、家庭。
次に、会社。
そして、精神障害者はいつだって社会の除け者だ。
人が生きるということは必ず何かしらの社会に属しているということだ。
その属すべき社会を失うというのは、当然あの様に狂い出すのだろう。
残念ながら、いや、喜ばしい事に私にはまだ私を受け入れてくれる社会がある。
それは、周りの方が優しいからという綺麗事も勿論含むが、
何より私自身が何とか人様に見せれる自分を装って生きているからだ。
そして、自分を受け入れてもらえる小さなコミュニティを自分で築き上げてきた。
これは、運やタイミングが良かったと言えど、友人などの縁を大切にしてきた自分の努力の結果だと捉えている。
私の姉は愛着障害持ち、アスペルガー症候群、そして恐らく鬱病である。
姉と共通の友人も多数いるが、姉の周りは常に人が少なく、
個人の抱える問題の大きさに折角の友人達も疲れ始め距離を置かれる次第だ。
結局、姉は周りに相談するべき相手も見失い、1人で抱え込み余計に偏り、捻くれていってしまった。
何が言いたいのかというと、
受け入れてもらうのには本人の努力が求められるというだ。
何より受容というのは、まず相手の理解から始まる。
理解というのは全てを知るという事ではない、言葉の端々から何となくその人の人となりを分かり出す事だ。言動から何となくその人を汲み取れるという事だ。
しかし、理解するには知識が必ず要るものだ。
例えば、映画「joker」の主人公アーサーを理解するには、映画で伝えられるアーサーの病気や環境を知る事だ。
映画を見てアーサーについて理解に及ばずとも、共感などが出来るのは、彼個人の情報を映画で知ったからなのだ。
つまりは、「知らない」と何にも始まらない。言い換えれば、「伝えられない」と何も変えられない。
映画にも登場したカウンセラーやソーシャルワーカーの必要性とは、
福祉や精神障害を学んでいるため、
普通の人が精神障害者と関わるより、「伝わる」ものが多いからなのだ。
人に自分を「知られる」というのは安心感を得るものだ。
しかし、その様なプロでも理解し得ない事は沢山ある。
じゃあプロでも理解が及ばないと一般人はどう扱う?邪険にし始める。
中には、障害等を個性と捉え接してくれる者もいる。しかし、その人も自分を救ってくれる訳でもない。
だが、そういう人は自分の支えには必ずなっているものだ。
話が逸れてしまった。
人は助けて欲しければ、自分が何に困っているのか伝えなければならないし、それを知って理解をしてもらわなければならない。
しかし、こんな事本当に現実で可能なのか?
皆、救われたくて何度も何度も他者やあらゆるものに相談や助けを訴える。
だが、現実は変わらない。
また、理解はされない。
そして、疲れていく。
これが、ジョーカーの誕生に繋がっていったのだと思う。
殺人犯となり初めて人に注目を浴び、
人に感謝をされ、人に認められて、
誰が殺人をやめられるのだろう。
殺人にアイデンティティや自分を見出してしまった事は歪んでいるかもしれないが、
ジョーカーを生み出したのはアーサー自身であり、また社会なのだ。
私はこの映画の主人公アーサー、またジョーカーを多くの人が受容出来た社会であって欲しいと切に願う。